
CG:YUKIMURA SANADA (Sitting)
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| CG:真田幸村(着座) |
大河ドラマやゲームで人気の戦国武将「真田幸村」です。「日本一の兵」という悲劇のヒーローです。
大河ドラマの方はいよいよ大坂の陣で最大の見せ場「真田丸攻防」と「家康本陣への突撃」の場面に突入。
大河ドラマでは「真田信繁」としていますが、僕にとっても、一般的にもやはり「真田幸村」ですかね。
「源二郎」、「左衛門佐」など呼び名は幾つかありますが、歴史の表舞台に登場したのは「幸村」です。
「源二郎」、「左衛門佐」など呼び名は幾つかありますが、歴史の表舞台に登場したのは「幸村」です。
祖父は「幸隆」、父が「昌幸」、兄が「信幸(後に之)と真田家にとって「幸」には特別な拘りがあります。
しかし、実際に「幸村」と名乗った証拠は無く、江戸期に入って軍記物などで「幸村」が広まった様です。
しかし、実際に「幸村」と名乗った証拠は無く、江戸期に入って軍記物などで「幸村」が広まった様です。
「幸村」は「豊臣秀吉」の馬周衆で「左衞門佐」の官位を持ち、1万9千石の大名待遇だったとされます。
「関ヶ原の合戦」で豊臣方だった為に「幸村」は高野山「九度村」に流され不遇の16年間を送ります。
「関ヶ原の合戦」で豊臣方だった為に「幸村」は高野山「九度村」に流され不遇の16年間を送ります。
「大坂の陣」の時に「幸村」は「豊臣秀頼」から現在の価値で7~8億円もの軍資金を与えられます。
宝くじが当たった様な潤沢な資金で「幸村」は槍や鉄砲などの武具や兵を揃え「赤備え隊」を組織します。
宝くじが当たった様な潤沢な資金で「幸村」は槍や鉄砲などの武具や兵を揃え「赤備え隊」を組織します。
二度の「上田合戦」で数倍もの徳川勢を撃退した父・昌幸は「武田信玄」の赤備えの二十四将でした。
大坂の陣で対戦した徳川方の井伊家も「赤備え」でしたが、これは滅ぼした武田家の家臣を召し抱えた為。
大坂の陣で対戦した徳川方の井伊家も「赤備え」でしたが、これは滅ぼした武田家の家臣を召し抱えた為。
真田家は「犬伏の別」で徳川方に付いた兄・信之が大名家として存続しますが、「幸村」の子孫も残ります。
次男・守信と姉・阿梅が仙台藩・片倉家に匿われ、阿梅は片倉重長の妻、守信の子孫は「仙台真田家」を創設。
次男・守信と姉・阿梅が仙台藩・片倉家に匿われ、阿梅は片倉重長の妻、守信の子孫は「仙台真田家」を創設。
「真田幸村」は一世一代の大いくさを、大坂の陣で「真田丸攻防」と「家康本陣突入」でやって魅せます。
3千の小勢で家康の旗本1万5千を蹴散らし家康本陣に突入した戦いぶりは「日本一の兵」と称えられます。
3千の小勢で家康の旗本1万5千を蹴散らし家康本陣に突入した戦いぶりは「日本一の兵」と称えられます。
CGですが、前に兜は作っていましたが、今回は甲冑姿の全身像です。DAZ Studioも使用しています。
甲冑はShadeで作成しました。レンダリングは例によってVueで行っています。今回は着座像です。
甲冑はShadeで作成しました。レンダリングは例によってVueで行っています。今回は着座像です。
幸村の甲冑については、大坂冬の陣で着用した物は残っている様ですが、夏の陣での物はよく分かりません。
夏の陣では数名の影武者が現れたり、50歳で夏場を騎馬で走る事から軽装だったとも想像されます。
夏の陣では数名の影武者が現れたり、50歳で夏場を騎馬で走る事から軽装だったとも想像されます。



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