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柿本人麻呂考

 柿本人麻呂は、持統・文武朝で活躍した宮廷歌人とされ、古来より「歌聖」と称される至高の歌人である。
 生年・没年は不詳で、万葉集が唯一の史料とされる。

 万葉集を編纂した大伴家持とは、おそらく、人麻呂が没した頃に家持が生まれた程の年代の違いがあると思われる。
 その一世代後というそれ程遠くない時代の家持から、和歌の学びの道を「山柿之門」と称せられる程の偉大な存在であったようである。
 また、「歌聖(うたのひじり)」とは、紀貫之が人麿呂を古今集の仮名序で尊称したものである。

 万葉集に於いて人麿呂の歌は、羇旅歌、相聞歌、雑歌、挽歌などの分類で記載されている。
 その中でも、宮廷歌人としての人麿呂を考える際に重要なのが、天皇に従駕した際の羇旅歌と皇族が薨じた際の挽歌であると思われる。

 年代別に並べてみる。(歌は長歌など長いので省略する)

 持統三年(689年) 草壁皇子が薨じた際の挽歌
 持統四年(690年) 持統天皇の吉野行幸に従駕し歌
 持統四年(690年) 川島皇子が薨じたときに泊瀬部皇女に献じた歌
 持統六年(692年) 持統天皇の伊勢行幸に従駕したときの妹を恋慕する歌
 持統六年(692年) 軽皇子の安騎野遊猟に供奉したときの歌
 持統十年(696年) 高市皇子が薨じた際の挽歌
 文武四年(700年) 明日香皇女(天智天皇の皇女)薨去の際の挽歌
 大宝元年(701年) 文武天皇の紀伊国行幸の際、有間皇子の結び松を見て作歌

 これらの歌は皇族に関係する歌ばかりである。
 即ち、人麿呂が当時、宮廷歌人として重要な地位にいたことを示すと考えられるのである。
 事実、江戸時代までは人麿呂は宮廷にあって高官であったと考えられていたようである。

 しかし、江戸時代の契沖や賀茂真淵らによる、人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたというのが現在まで定説になっている。
 その理由として、以下の2つが指摘されている。
 1.五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名は正史に見られない。
 2.律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっているが、人麻呂の死をめぐる歌の詞書には「死」と記されている。

 その通説に対し、梅原猛氏は「水底の歌」において、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱えている。
 これを発展させた井沢元彦氏の「猿丸幻視行」も面白い。柿本朝臣サルの死亡記事というのがあって、この柿本サルこそが失脚し変名させられた人麻呂ではないかとする説である。
 こういった「人麻呂失脚説」は、宮廷歌人であった人麻呂を説明する上で、合理的であるような気がするのである。
 果たして、賀茂真淵らが言うように人麿呂が六位以下の下級官吏であったとしたら、そんな人物に皇太子クラスの貴人の挽歌を作らせるだろうか、という疑問が湧いて来るのである。

 大宝二年(702年)には持統上皇の東国行幸がなされ、長意吉麻呂・高市黒人ら歌人が従駕して歌を残しているが、人麻呂がこの行幸に従駕した形跡はない。
 これ以降、万葉集の歌を見る限り、宮廷歌人としての人麿呂の歌は無くなるのである。

 宮廷を離れた人麻呂は、和銅元年(708)以降、筑紫に下ったり、讃岐国に下ったりした後、石見国で妻に見取られることなく死んでいる。
 そして、没後の神亀元年(724年)には、石見国高津に人麻呂神社が創建され、歌聖として仰がれ、神として祀られた。

 人麻呂は初めは明らかに宮廷歌人であった。それがある時を境に地方に下り、最期は寂しく死んで行く。没後に歌聖、神として祀られた。
 この経緯をみると、やはり初めは宮廷歌人という高官の地位にあって、それが何らかの理由で途中に失脚して地方に左遷させられた、こう考えるのが妥当であると考えられるのである。
 そして、万葉集の編者である大伴家持が「山柿之門」と崇めたり、死後に歌聖、神として祀られたりと、人麻呂は当時の歌人の中でかなり超越的な存在であったとも想像されるのである。

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 ここからは、僕の持論の「柿本人麻呂論」になる。
 このように当時、宮廷歌人として超越的な存在であった柿本人麻呂は、他の歌人や文学者たちの指導者的な立場の存在でもあったと考えられるのである。
 そう考えると人麻呂は、この当時に行われていた国家の一大事業であった「古事記」や「日本書紀」の編纂にも主導的立場で参画していた筈である。
 おそらく、彼抜きでは、これだけの書物の編纂は考えられなかったのではないだろうか。何しろ、当時の権威者なわけである。
 つまり、柿本人麻呂は「古事記」や「日本書紀」の編纂、特に「日本書紀」の編纂に大きく関わり、且つ主導的な立場であったとも考えられるのである。

 柿本人麻呂は生年・没年が不詳であるが、活躍した年代は記録のあるもので持統三年(689年)から死後の少し後である神亀元年(724年)である。
 持統三年(689年)には既に宮廷歌人であったことから、生年はその2~30年前だと推定される。没年も神亀元年(724年)の少し前である。
 そうすると、その頃の権力者で「古事記」や「日本書紀」の編纂を命令したと考えられる「藤原不比等」(斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月13日))と殆ど同年代の人物なわけである。
 このことは、柿本人麻呂が「古事記」や「日本書紀」の編纂に関わっていたということの十分な裏づけになるのである。
 しかも、彼ほどの権威者ならば、その編纂で主導的な立場であった筈である。

 最初は宮廷歌人という高官であって、その後失脚して地方へ左遷させられた「柿本人麻呂」と、最初は不遇の身であったが後に最高権力者にのし上がった「藤原不比等」。
 この二人はいかにも対照的である、しかも、年齢も10歳と離れていないだろう。
 政治的な対立があったのであろうか。
 人麻呂は、壬申の乱で滅びた天智天皇(または大友皇子)の都であった琵琶湖南端の近江宮を懐かしんで詠んだ歌を幾つか残している。

 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
 楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎(からさき)さきくあれど大宮人の船待ちかねつ
 楽浪の志賀の大曲(おほわだ)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

 もしかしたら、人麻呂は近江宮でも使えていた歌人だったのかも知れない。
 しかし、その後、天武・持統朝で宮廷歌人として活躍しているのである。
 そして、不比等は天智天皇の実子であるとされ、持統・文武朝で実権者になっている。
 だから、「柿本人麻呂」と「藤原不比等」との政治的な対立というのは考えにくい。

 対立があったとすれば、不比等が史実を曲げて自分に都合の良い「日本書紀」の編纂をしようとしたことだろう。
 詩人で学者であった人麻呂が、そのことに反対したというのは十分に考えられ得るのではないだろうか。
 そして、「日本書紀」の編纂の途中で、人麻呂は左遷させられるのである。
 僕の私見では、人麻呂は不比等よりも5歳位年上であったと思っている。
 年上の権威者であった人麻呂が、急に成り上がって来た権力者の不比等に逆らったというのは考え易いだろう。

 さて、柿本人麻呂が宮廷歌人から左遷させられて寂しい最期を遂げた原因とその過程は見えて来た。
 しかし、僕は柿本人麻呂の業績で、多くの歌を作った歌聖であったという他に、もっと大きな業績があったと考えているのである。

 それは「万葉仮名」の発明である。
 それまでは、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来の漢字を用いていた。
 大和言葉という日本語を記す際に、日本語の一音一音を漢字の音(または訓)を借りて写す表記方法のことを「万葉仮名」という。
 僕は、この方法を発明し、広めたのは、当時の超越的文学権威者であった柿本人麻呂であったのではないか、と考えているのである。

 これ以前の時代にも、詩や文学というのはあった。それは中国から伝わった漢字による漢詩である。
 おそらくこれは、今の僕らが外国語を勉強するのと同じような感じのものだったのではないだろうか。
 普段使っている大和言葉を、直接に表記出来る文字を必要としていたに違いないと考えるのである。

 人麻呂はその当時、漢字の読み書きや意味などについて、頭抜けて高い知識人であった。
 5音と7音が並ぶ大和言葉にも精通していて、「万葉仮名」による言葉や歌の表記方法を示したというのは十分に考えられる。
 それまではおそらく、大和言葉の歌もいちいち漢詩に訳して書き換えていたのかも知れない。

 こうした大発明をしたからこそ「歌聖」と崇められ、「神」としてまで死後に祀られたのではないだろうか。
 ただ単に、和歌を沢山作ったというのでは無いのではないか。
 和歌を沢山作った人は他にもいるだろうし、「歌聖」や「神」と呼ばれるのには、それなりの差別化される偉大な業績が必要だと思うのである。
 当時の大発明、それは「万葉仮名」なのであり、これによって大和言葉による「和歌」が誕生したのである。
 この「万葉仮名」を発明し、「和歌の誕生」というものを成した柿本人麻呂が、それ故に「歌聖」と呼ばれるのではないだろうか。

 ちょっと大胆な推論ではあると思うが、「歌聖柿本人麻呂」と「万葉仮名の発明」、「和歌の誕生」という時代的な一致からすると荒唐無稽な説では無いと思う。
 最期に、柿本人麻呂の短歌で、僕の好きな歌を並べてみる。

 淡路の野島の崎の浜風に妹(いも)が結びし紐吹き返す
 天離(あまざか)る夷(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
 もののふの八十(やそ)宇治川の網代木(あじろき)にいさよふ波の行くへ知らずも
 東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
 み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思へど直(ただ)に逢はぬかも
 石見のや高角山(たかつのやま)の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
 鴨山の磐根し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ