聖徳太子は実在したか? |
聖徳太子について、一般に日本史の教科書で習うのは、飛鳥時代の推古天皇の摂政で、冠位十二階と十七条憲法を制定し、遣隋使を派遣した人、というものである。
この聖徳太子については、古来より、その存在や業績について文献や記録、伝承からさまざまな研究がなされている。
最初に聖徳太子についての記述があるのは「古事記」である。
その中では、上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやうまやととよとみみのみこと)という名前で表記されている。
また「日本書紀」では、厩戸皇子(うまやとのみこ)とか、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。
聖徳太子という名称については、死後100年以上たってからの、平安時代から用いられるようになった尊称(諡(おくりな))であるとされる。
日本史の教科書で習った聖徳太子の伝記や業績、出生については殆どが「古事記」や「日本書紀」に書かれているものであり、聖徳太子の著作とされる「天皇記」、「国記」、「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」などは現存していない。
「古事記」や「日本書紀」は「大化の改新」以降の奈良時代に、当時の権力者であった「藤原不比等」の意向に沿って書かれた可能性が高い。
また、その藤原不比等は、大化の改新の立役者であった「天智天皇」や「中臣鎌足」のそれぞれ実子と養子であると言われているのである。
従って、「古事記」や「日本書紀」の記述を鵜呑みにすることは、かなり難しいのではないかと思われるのである。
ましてや、当時、この2書以外の歴史書は、ことごとく命令が出されて焼却などの処分をされたのだとも言う。
これまでの日本史の教科書でのこの時代の記述は、唯一の古代の歴史書である「古事記」と「日本書紀」の記述に沿ったものであったのである。
古来、聖徳太子については数多くの研究がなされているようだが、最近の研究というか著作を取り上げてみたい。
梅原猛「聖徳太子」(2003 小学館、1993 集英社文庫 )と大山誠一(編集・共著) 「聖徳太子の真実」(2003 平凡社 )である。
また、その藤原不比等は、大化の改新の立役者であった「天智天皇」や「中臣鎌足」のそれぞれ実子と養子であると言われているのである。
従って、「古事記」や「日本書紀」の記述を鵜呑みにすることは、かなり難しいのではないかと思われるのである。
ましてや、当時、この2書以外の歴史書は、ことごとく命令が出されて焼却などの処分をされたのだとも言う。
これまでの日本史の教科書でのこの時代の記述は、唯一の古代の歴史書である「古事記」と「日本書紀」の記述に沿ったものであったのである。
古来、聖徳太子については数多くの研究がなされているようだが、最近の研究というか著作を取り上げてみたい。
梅原猛「聖徳太子」(2003 小学館、1993 集英社文庫 )と大山誠一(編集・共著) 「聖徳太子の真実」(2003 平凡社 )である。
梅原猛氏の「聖徳太子」では、概ね「日本書紀」の記述に沿う内容になっている。
梅原猛氏はその中でこう述べている。
「日本書紀」ができたのは、聖徳太子の時代を去ること約100年である。そして「日本書紀」は国家の正史である。正史は正説を記さねばならない。もしそこにウソイツワリが書いてあるならば、それは正史の権威の失墜ばかりか、国家の権威の失墜になる。
即ち、「日本書紀」に書かれた内容は国家の正史であって真実であると述べているのである。
梅原猛氏と言えば、日本でも有数の「哲学者」であり、彼一流の深い考察力と分析力で「日本書紀」の記述内容を徹底的に検証して見せている。
梅原猛氏はその中でこう述べている。
「日本書紀」ができたのは、聖徳太子の時代を去ること約100年である。そして「日本書紀」は国家の正史である。正史は正説を記さねばならない。もしそこにウソイツワリが書いてあるならば、それは正史の権威の失墜ばかりか、国家の権威の失墜になる。
即ち、「日本書紀」に書かれた内容は国家の正史であって真実であると述べているのである。
梅原猛氏と言えば、日本でも有数の「哲学者」であり、彼一流の深い考察力と分析力で「日本書紀」の記述内容を徹底的に検証して見せている。
僕は彼の著書を幾つか読んでいる。何れも、日本の歴史を彼の鋭い直感と分析力で洞察しておられる。
僕が最も感動した彼の書は「水底の歌」という、柿本人麻呂についての書である。
僕が最も感動した彼の書は「水底の歌」という、柿本人麻呂についての書である。
「鴨山の磐根しまける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」
という柿本人麻呂に歌われ、その死地とされる鴨山という場所を論証によって特定して行くという内容である。
僕はこの本をかなり前に夢中で読んだ記憶がある。中に出て来た柿本人麻呂の短歌を全部暗記したとも思う。2日か3日で読破した筈だ。
それ程に、感動が大きかった本であった。梅原猛氏の熱意や直感力の鋭さに驚嘆し感銘し共鳴したのであると思う。
僕はこの本をかなり前に夢中で読んだ記憶がある。中に出て来た柿本人麻呂の短歌を全部暗記したとも思う。2日か3日で読破した筈だ。
それ程に、感動が大きかった本であった。梅原猛氏の熱意や直感力の鋭さに驚嘆し感銘し共鳴したのであると思う。
その後、彼の著作を片っ端から読んだ。勿論、哲学の本ではない。こちらは読んでもちんぷんかんぷんであろう。
「隠された十字架(法隆寺論)」というのも読んだ。
これは正に「聖徳太子」について書いた書なのである。この書では、「聖徳太子」は不幸な死を遂げた人物であって、その怨霊を封じる為に法隆寺が建立されたと論じている。
しかし、その後の著書「聖徳太子」では、「隠された十字架」の中で「改竄」「創作」などとしていた「日本書紀」の記述や法隆寺関係資料の信憑性を見直し、自分の考察の甘さを反省し、「改竄」「創作」とされた部分を多く訂正した、と書かれているのである。
これには正直驚いたし、彼らしくないとも思ったのである。
「隠された十字架(法隆寺論)」というのも読んだ。
これは正に「聖徳太子」について書いた書なのである。この書では、「聖徳太子」は不幸な死を遂げた人物であって、その怨霊を封じる為に法隆寺が建立されたと論じている。
しかし、その後の著書「聖徳太子」では、「隠された十字架」の中で「改竄」「創作」などとしていた「日本書紀」の記述や法隆寺関係資料の信憑性を見直し、自分の考察の甘さを反省し、「改竄」「創作」とされた部分を多く訂正した、と書かれているのである。
これには正直驚いたし、彼らしくないとも思ったのである。
さて、もうひとつの「聖徳太子」についての最近の書である、大山誠一(編集・共著) 「聖徳太子の真実」の方に話を移すことにしたい。
大山誠一氏は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。
厩戸王という人物がいたことは否定しないが、推古天皇の皇太子・摂政として、数々の業績を上げた聖徳太子という人物は、「日本書紀」が書かれた当時の実力者であった藤原不比等らの創作であって架空の存在であるとしているのである。
また、日本書紀における聖徳太子像について、大山誠一氏は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとしている。
つまりは、「聖徳太子」という人物は実在していなかったのであり、「日本書紀」における藤原不比等による虚構、創作であると結論づけしているのである。
大山誠一氏は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。
厩戸王という人物がいたことは否定しないが、推古天皇の皇太子・摂政として、数々の業績を上げた聖徳太子という人物は、「日本書紀」が書かれた当時の実力者であった藤原不比等らの創作であって架空の存在であるとしているのである。
また、日本書紀における聖徳太子像について、大山誠一氏は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとしている。
つまりは、「聖徳太子」という人物は実在していなかったのであり、「日本書紀」における藤原不比等による虚構、創作であると結論づけしているのである。
では、何故、藤原不比等は「聖徳太子」という虚構、創作をしたのか、という疑問が湧いて来るのである。
大山誠一氏の見解は以下のようになる。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が天皇家の権威回復に努め、その弟天武天皇が壬申の乱に勝って初めて天皇家の権威が確立して万世一系が実現した。
それまでは蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿の3代が蘇我王朝の権勢を振るっていたと考えられる。
そうだとすると、万世一系の天皇家の家系の権威が揺らぐことになって、藤原不比等が描こうとする律令国家にとって不具合が生じる。
それで、「日本書紀」では、実際には大王だった蘇我馬子を大臣とし、架空の大王として用明、崇峻、推古を描いて埋め合わせしたと大山誠一氏は推察している。
しかし、僅か1世紀前の蘇我馬子の飛鳥の都の建設や飛鳥寺創建など仏教への貢献は歴史から消し去れないから、蘇我馬子と近かった厩戸王を聖徳太子の名で売り出し彼の業績にしたのだという。
大山誠一氏の見解は以下のようになる。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が天皇家の権威回復に努め、その弟天武天皇が壬申の乱に勝って初めて天皇家の権威が確立して万世一系が実現した。
それまでは蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿の3代が蘇我王朝の権勢を振るっていたと考えられる。
そうだとすると、万世一系の天皇家の家系の権威が揺らぐことになって、藤原不比等が描こうとする律令国家にとって不具合が生じる。
それで、「日本書紀」では、実際には大王だった蘇我馬子を大臣とし、架空の大王として用明、崇峻、推古を描いて埋め合わせしたと大山誠一氏は推察している。
しかし、僅か1世紀前の蘇我馬子の飛鳥の都の建設や飛鳥寺創建など仏教への貢献は歴史から消し去れないから、蘇我馬子と近かった厩戸王を聖徳太子の名で売り出し彼の業績にしたのだという。
天武天皇は、最初に「天皇」を名乗った天皇である。
それまでは、沢山いた部族長である「王」を束ねる意味で「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。
それが、中国で「皇帝」の上の「天皇」という呼称が生まれ日本に伝わった。
本国の中国では「天皇」という呼称はいつの間にか廃れてしまったが、日本にこの呼称は残ったのである。
「大王」と呼ばれていた時代、それは万世一系でも無く、その時代の実力者がなっていたとも考えられるのである。
例えば、「継体天皇」である。勿論、この当時「天皇」という呼び名は無かった。
越前の方から突然現れ、かなり暫く奈良地方に留まった後に「大王」と名乗るのである。「継体天皇」は、実力で「大王」になったとも考えられるのである。
それまでは、沢山いた部族長である「王」を束ねる意味で「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。
それが、中国で「皇帝」の上の「天皇」という呼称が生まれ日本に伝わった。
本国の中国では「天皇」という呼称はいつの間にか廃れてしまったが、日本にこの呼称は残ったのである。
「大王」と呼ばれていた時代、それは万世一系でも無く、その時代の実力者がなっていたとも考えられるのである。
例えば、「継体天皇」である。勿論、この当時「天皇」という呼び名は無かった。
越前の方から突然現れ、かなり暫く奈良地方に留まった後に「大王」と名乗るのである。「継体天皇」は、実力で「大王」になったとも考えられるのである。
従って、実力者であった「蘇我馬子」が「大王」を名乗って王朝を築き、3代に亘って馬子、蝦夷、入鹿と権勢を誇ったと考えても不思議は無い。
そして、「欽明天皇」以来の皇族の家系であった「中大兄皇子(天智天皇)」が復興を図る為に「中臣鎌足」と企てたのが「大化の改新」であり、蘇我王朝というものを滅ぼしたのである。
その経緯をその通りに書くのは新王朝の権威にとってまずいので、「聖徳太子」という創作を「天智天皇」の実子だと言われる「藤原不比等」は行い、蘇我王朝を歴史から消し去ったのである。
「聖徳太子」が摂政として政治を行ったとされる時代は「蘇我馬子」の時代であったのだが、そこに用明、崇峻、推古という架空の王朝を挿入することで、蘇我王朝は「日本書紀」によって歴史から消し去られた。
そして、「欽明天皇」以来の皇族の家系であった「中大兄皇子(天智天皇)」が復興を図る為に「中臣鎌足」と企てたのが「大化の改新」であり、蘇我王朝というものを滅ぼしたのである。
その経緯をその通りに書くのは新王朝の権威にとってまずいので、「聖徳太子」という創作を「天智天皇」の実子だと言われる「藤原不比等」は行い、蘇我王朝を歴史から消し去ったのである。
「聖徳太子」が摂政として政治を行ったとされる時代は「蘇我馬子」の時代であったのだが、そこに用明、崇峻、推古という架空の王朝を挿入することで、蘇我王朝は「日本書紀」によって歴史から消し去られた。
大山誠一氏は、古代史分野において実績のある大学教授である。
どうもこれが学会の定説になって来ているようなのである。
だが、「聖徳太子」が日本史の教科書から消え、そこに「蘇我王朝」である飛鳥時代が記載されるのには、かなりな時間と抵抗があるのではないだろうか。
どうもこれが学会の定説になって来ているようなのである。
だが、「聖徳太子」が日本史の教科書から消え、そこに「蘇我王朝」である飛鳥時代が記載されるのには、かなりな時間と抵抗があるのではないだろうか。
僕は、これまで「聖徳太子」の業績とされていた多くのものが、実は「蘇我馬子」という「大王」の業績ではなかったのか、と思うのである。
奈良に「石舞台遺跡」という大きな石で出来た遺跡がある。
これは「蘇我馬子」の墓だと言われている。
一度中に入ったことがあるが、巨大な石のお墓である。
今後、飛鳥時代を築いた、この「蘇我馬子」という人物が歴史的に見直されて来るのかも知れない。
奈良に「石舞台遺跡」という大きな石で出来た遺跡がある。
これは「蘇我馬子」の墓だと言われている。
一度中に入ったことがあるが、巨大な石のお墓である。
今後、飛鳥時代を築いた、この「蘇我馬子」という人物が歴史的に見直されて来るのかも知れない。
また同時に、それまでの歴史を「日本書紀」によって自分の意思で書き換えてしまい、その後の1千年にも及び更に現在まで続く「平安王朝」の礎を築いた「藤原不比等」という人物の偉大さにも驚愕せずにはいられないのである。
この「藤原不比等」を境にして、日本の歴史は彼の時代へと一変したのである。この「藤原不比等」の時代こそは日本の歴史のヘソ、或いは日本という国の歴史の始まりだと言っても過言ではあるまい。
この「藤原不比等」を境にして、日本の歴史は彼の時代へと一変したのである。この「藤原不比等」の時代こそは日本の歴史のヘソ、或いは日本という国の歴史の始まりだと言っても過言ではあるまい。
そして、実は、この時代は「日本語」というものが初めて確立した時代でもあるのである。
漢字を表音文字として使用した仮名文字の原型が出来始めた時代でもあるのである。
中国から伝わった漢詩から、日本語でそのまま発音出来る「和歌(短歌や長歌)」が読まれ始める。「万葉集」が編纂もされた。
ここに関わった中心人物は、僕は、渡来系の知識人、文学者であった「柿本人麻呂」であったと推察している。
漢字を表音文字として使用した仮名文字の原型が出来始めた時代でもあるのである。
中国から伝わった漢詩から、日本語でそのまま発音出来る「和歌(短歌や長歌)」が読まれ始める。「万葉集」が編纂もされた。
ここに関わった中心人物は、僕は、渡来系の知識人、文学者であった「柿本人麻呂」であったと推察している。
「柿本人麻呂」こそ、仮名文字による日本語の原型を作り、「和歌(短歌や長歌)」を広め、初期の「万葉集」を編纂し、また、「古事記」や「日本書紀」の編纂に当たった中心人物であったのではないだろうか。
しかし、「柿本人麻呂」はその「歌」から、最期は非業の死を遂げたと、僕は想像している。
おそらく、「日本書紀」の内容などを巡って、「藤原不比等」らと対立して左遷、もしくは刑死させられたのでないだろうか。
「歌聖」と呼ばれた和歌の祖「柿本人麻呂」にして、怨霊文化とも言うべき日本の「和歌」の文化が始まった、と考えているのである。
その後の、和歌集は「万葉集」にしても「古今和歌集」にしても何にしても怨霊的「悲劇」が歌い込まれているのである。
しかし、「柿本人麻呂」はその「歌」から、最期は非業の死を遂げたと、僕は想像している。
おそらく、「日本書紀」の内容などを巡って、「藤原不比等」らと対立して左遷、もしくは刑死させられたのでないだろうか。
「歌聖」と呼ばれた和歌の祖「柿本人麻呂」にして、怨霊文化とも言うべき日本の「和歌」の文化が始まった、と考えているのである。
その後の、和歌集は「万葉集」にしても「古今和歌集」にしても何にしても怨霊的「悲劇」が歌い込まれているのである。
「鴨山考」とまでは行かないが、いつか、この「柿本人麻呂」についても書いてみたいと思っている。
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