CG : MASAMUNE Helmet (Self-made modeling)
いつもは6時起床なのだが、日曜の今朝は昼頃までベッドの中に居た。実は頭の中で散策をしていたのだ。
一人の人間が考えた事など何をどう考えたか何も残らない。文章に残さないと、只消え去って行くだけだ。
今朝の散策のきっかけは、先日提起した「大坂の陣で真田信繫と伊達政宗がつるんでいた」という命題だった。
その際に真田信繫は伊達家重臣片倉重長に三女の阿梅と次男の真田守信を託した。この血筋の行方を考えた。
江戸時代になって真田信繫の武功がクローズアップされ、彼は「真田幸村」と呼ばれ称えられたのである。
その頃、伊達家の当主(仙台藩主)の名前に伊達綱村や伊達吉村など、真田幸村と同じ“村”が使われ出した。
片倉重長に嫁した阿梅の血が伊達家に入っていて、それを象徴する為に同じ“村”を使ったのではないか。
そういう疑問が湧いて来ていた。伊達氏中興の祖と名高い伊達吉村の母は“片倉松子”といい片倉家出身。
ところが、松子は阿梅の実子ではない。前正室の綾の実子で、真田信繫の血は入っていない事が判明した。
同時に吉村は養嗣子であり伊達氏の血筋は流れているが、伊達宗家に伊達政宗の血は流れていない事も判明。
伊達政宗と正室の愛姫(田村氏)の血筋は田村一関藩(3万石)にこそ流れている事が分かったのである。
田村氏は征夷大将軍 坂上田村麻呂の子孫の豪族とされるが、豊臣秀吉による奥州仕置で改易になっていた。
愛姫は実家田村氏の再興を願い遺言により実子の忠宗の三男の宗良が田村宗良として田村氏が再興された。
その後の伊達騒動で失脚した伊達宗勝(伊達兵部)に代わり一関藩を継いだ。田村一関藩は明治まで続く。
明治維新後、一関田村家は子爵を賜ったが他の一族は平民になり帰農したらしい。庄屋や大百姓になった。
僕の母方の祖母は“田村”姓であった。母の祖父が村長をしていて母の父に大百姓家から嫁いで来たそうだ。
僕はどうやら僕に伊達政宗の血筋が流れていると言いたいのかも知れない。しかし、その辺は不明である。
もしもそうだったなら、宮城県北の人の多くがそうなのかも知れない。権力者は多くの子孫を残すからだ。
例えばジンギスカンがその典型で蒙古帝国はヨーロッパまで侵攻し彼の生物学的子孫は3000万人も居る。
日本で言えば藤原不比等の生物学的子孫は800万人も居るとされる。実に日本人の約7%に当たるのだ。
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