CG : Masamune Horse riding picture
戦国末期の英雄「伊達政宗」は当時の世界の覇権国スペインのフェリペ三世に外交使節団を派遣している。
このローマ法王にも拝した『慶長遣欧使節』はスペインと連携した幕府転覆計画であったともされている。
「伊達政宗」は大阪の陣に参戦し『大坂冬の陣』で大坂城の内堀を埋め立て伊予国宇和島の加増を受けた。
『大坂夏の陣』では敵将『真田信繁』と対峙するが、その戦い方に筆者はある疑いを持っているのである。
『大坂夏の陣』に出陣した伊達隊は異様な編成であった。5000名の兵の内3500名が鉄砲隊である。
当時の軍制からすると異様であり“騎馬武者鉄砲隊”までがあった。兵は多くないが強力な伊達隊である。
ところが伊達隊は「真田信繫」隊との交戦を回避していた節があるのである。それは敗走と称されている。
『道明寺の戦い』で伊達隊は強力な鉄砲隊の射撃で敵将「後藤基次」隊を壊滅させ自刃に追い込んでいる。
しかし、その後「後藤基次」隊を救援に駆け付けた「真田信繫」隊とは交戦を避ける様に敗走をしている。
実はこの時「真田信繫」の次男「真田守信」と三女「阿梅」を重臣「片倉重長」に託されていたのである。
「片倉重長」は仙台白石城城主で「阿梅」はその室になった。「真田守信」は仙台真田家を起こしている。
筆者はここで「伊達政宗」と「真田信繫」が気脈を通じていた可能性を疑っている。両者は連んでいたと。
『道明寺の戦い』で伊達隊は奇妙な行動を取っている。「後藤基次」を討ち取ったが味方を攻撃している。
隣りに陣取っていた「水野勝成」の一部隊を銃撃し壊滅させているのである。前に居たので撃ったとした。
「水野勝成」は「真田信繫」への追撃を「伊達政宗」に要請したがこれを拒否、「真田信繫」を逃がした。
「伊達政宗」は弾を撃ち尽くしたとした。嘲笑「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
「伊達政宗」程の歴戦の武将が弾を撃ち尽くしたり、嘲笑を受ける様な愚策をするとは到底思えないのだ。
「真田信繫」との交戦をことごとく避けていた様に見えるのである。その最たるはこの後の戦いにあった。
『天王寺の戦い』である。一旦大坂城に戻った「真田信繫」が機を見計らって「徳川家康」本陣に突撃する。
この時「伊達政宗」は弾を撃ち尽くした事を理由に後方に退いていた。と言うより“高みの見物”だった。
「真田信繫」の三度の突撃で「徳川家康」が馬印を倒され、切腹寸前まで追い込まれる様を見物していた。
ここで「徳川家康」が死ねば、世は再び戦国となり「伊達政宗」に“天下取り”のチャンスが巡って来る。
『大坂夏の陣』後に約束されていた120万石は60万石に減俸されたが、その真の理由はこの辺にある?
「伊達政宗」は追討軍が来た場合の軍略を練って居た。敗走する幕府軍を追って江戸へ攻め込む手筈だった。
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