Death of Kyu Sakamoto

CG : The truth about Kyu Sakamoto's death

 

日航ジャンボ機墜落事故』から36年目の8月12日、当ブログはパソコンの故障で記事が書けなかった。

そこで改めてこの事件の真相について、新たに制作したCGを加えて述べてみたい。坂本九の死の真相である。

 

「坂本九」という歌手を知っているだろうか。「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」などを歌った。

「九ちゃん」の愛称で親しまれていた。その彼は1985年のあの「日航ジャンボ墜落事故」の乗客であった。

搭乗した旅客機の墜落で彼は亡くなったが、実はこの墜落は事故ではなく撃墜を暗示する事件だったのである。

彼は事件の一部始終を見てしまったので、墜落後に生存していたのに、何と火炎放射器で焼き殺されている。

  

 *  *  *  *  *  *  *  *  *

 

以下の記事は、筆者が「日航ジャンボ機墜落事故」に関する情報を収集し独自に纏めたものである。

信用出来ると思われる事実で組み立てているが、筆者は某国による「軍事テロ」の疑いを強く持った。

 

  

「日航ジャンボ機事件」の真相を考える

以下、「日航ジャンボ機事故」について、当時の信頼できる情報を基に事件の真相を時系列に考察している。


<不可解なJAL123便墜落事故>

1985812日、羽田を離陸したJAL123便が御巣鷹山に墜落するという事故があった。

事故直後から救助や報道に不可解な点が多く、30年目の現在も真相は解明されていない。

救助隊が現地に到着したのは墜落から14時間後で、乗客・乗員525名の内、生存者は4名。

事故原因は、事故調査報告書によると与圧隔壁破裂で垂直尾翼が脱落した為なのだという。

乗務員で助かった落合由美さんによると、与圧隔壁破裂による気圧変化は無かったとの事。

ボイスレコーダーが改竄せれて公表されるなど、墜落原因については疑いが持たれて来た。

 


<緊急救難信号「スコーク77」を発信>

JAL123便は機体に大きな衝撃を感じた直後に、緊急救難信号「スコーク77」を発信。

「スコーク77」は「標的にされている」など軍関係との間で使われる類いの信号である。

 


<乗客がカメラで接近するミサイルを撮影>

乗客の小川さんが、持っていたカメラでJAL123便に右側から急接近する物体を撮影。

フィルムを現像して解析した結果、その物体がオレンジ色のミサイルである事が判明した。

 


<JAL123便に当たったミサイルは自衛隊のものでは無い>

JAL123便の尾翼に命中したミサイルが「標的機」などの自衛隊ものだという見方がある。

確かに当時、現場には新造艦「まつゆき」や対艦ミサイルを開発中の航空機EC-1が居た。

しかし、「まつゆき」には「標的機」や対艦ミサイル(SSM-1)を誘導する装備が無いのだ。

EC-1がSSM-1を誘導していたとしても、対艦ミサイルを航空機に向けたりはしない。

 


67時間後に現場に到着した大学生>

現地の大学生がオートバイで6~7時間後に到着、既に100名程の救助隊が居たと証言した。

彼らは暗闇の中で暗視ゴーグルを付け、山で活動し易い短靴を履き何やら作業をしていた。

救助活動をしている様には見えず、何か沢山の破片を上空のヘリに吊るして引き上げていた。

東洋人で日本語を話すのだが、この後に現場に来た自衛隊員とは装備などかなり違っていた。

 


<救助に向かった自衛隊員の射殺事件>

「待機命令を無視して救助に向かった自衛隊員が射殺されました」(当時のNHKニュース)。

NHKではこの直ぐ後に「先程のニュースは誤報であるとの事です」と訂正を入れている。

 


<現地人なら直ぐ分る墜落現場へ14時間も掛った救助隊>

御巣鷹山上野村長黒沢丈夫氏は、自衛隊が現場を特定出来なかった点に疑問を呈した。

黒沢村長は元ゼロ戦パイロットで、墜落機を目撃し、当初から御巣鷹山だと言っていた。

NHKの報道では墜落地点を長野県北相木村としていて、救助隊はそちらの方へ誘導された。

何故か故意に、御巣鷹山への救助隊の到着を遅らせた疑いがあると当時から言われていた。

 


<墜落当初は少なくとも数十名が生存していた>

救助された川上慶子さんの証言では、最初は父親や妹などかなりの人が生きていたとされる。

客室乗務員の落合由美さんも、墜落直後にはあちこちて呻き声などが聞こえていたそうだ。

先程の現場に早く着いた大学生も(6~7時間後)100人位の人が生存していたと証言している。

4名が救助された時、報道では7名救助とされたが残りの3名は何処かに消えてしまった。

 


<黒焦げの異常な死体と燃えていない森林>

ばらばらの死体や黒焦げの死体で現場は戦場の様だったと、当時の新聞がその惨劇を伝える。

救助の現場で検視に当たっていた医師は、黒焦げの死体の焼け方が異常だったと証言する。

通常は歯など表面が焼けても、内部の肉などは残るものだと経験上から異常さを指摘する。

まるで火炎放射機で焼き尽くされたみたいに焼けた黒焦げ遺体の状況なのだとも語っている。

中でも、髙濵機長の遺体は酷く、僅かに歯が確認されただけで粉々に吹き飛んだのだという。

それから、黒焦げの遺体のそばの木々は燃えずに残っていて、人だけが焼かれたみたいだった。

 


<OSソフト「トロン」の開発技術者11名が搭乗していた>

当時、日本はWindowsを上回る性能で無償のOSソフト「トロン」を開発し成功していた。

JAL123便にはこの主要な開発者(松下電器社員)11名が搭乗していて全員亡くなった。

米国は日本にWindowsの導入を強く迫っていたが、中曽根内閣は「トロン」の採用を決めていた。

日本の家電メーカー11社は既に生産を開始するパソコンに「トロン」の採用を決めていた。

 


<当時の日本は経済力で米国を追い抜く勢いだった>

当時の日本は、自動車で米国を凌駕するなど、GNP1位の米国を追い抜く勢いであった。

この為、米国の自動車業界(多くは米国の軍産複合体)は苦境に陥り暴動を起こしていた。

米国は、国内産業を守る為に、円高に誘導する「プラザ合意」に同意する様に迫っていた。

中曽根内閣は「プラザ合意」に同意すると、日本経済が失速するので拒否する意向を示した。

 


<日航機事故の後、中曽根内閣は急に「プラザ合意」に同意した>

まるで信頼する親から往復ビンタでも喰らったかの様に、日航機事故の後に急に方針を転換。

中曽根内閣は「プラザ合意」に同意したのである。その後、日本経済は「バブル崩壊」となる。

 


<「トロン」を止め、Windowsの全面採用も決定>

Windowsは米国の国家戦略であった。中曽根内閣は「トロン」を止めWindowsを全面導入。

その後日本にWindowsが上陸し、殆どの家電メーカーでWindowsのパソコンを販売した。

Windowsは日本での独占的採用で大成功したと言われている。これは間違いなく事実だろう。

もしも「トロン」が採用されていたなら、ビル・ゲイツ氏も億万長者になって居なかった筈。

 


<日航機事件の後、日本経済は低迷を続けている>

「日航機事件」という経済戦争で日本は米国に無条件降伏した。「バブルが崩壊」し現在に至る。

この事件の後、日本経済は不況のどん底を味わいGDPでも中国に抜かれ第3位に落ちた。

復活する経済政策「アベノミクス」の安倍政権だが、「米国ファースト」のトランプ政権が相手だ。

日米は強力な同盟国なのだがライバル同士でもある。互いに協調した発展をする必要がある。

 




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